せっつ気まぐれ鉄話

テキトーな鉄道考察ブログ。超低頻度不定期更新

東武沿線にあった幻の鉄路の跡を歩く

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江戸時代に急速に整備された日光街道は、東海道中山道に並ぶ五街道に数えられ、途中分岐する奥州街道へ続く東北への路として需要な役割を果たし、奥の細道に代表される詩人・松尾芭蕉もこの路を歩きました。今でこそ住宅地が並び、南北を縦断する東武鉄道伊勢崎線と共に近代を駆け抜けた草加や越谷の街のかつてはこの街道の重要な宿場町であったのです。

そんな街の魔改造の原因となった東武鉄道、今の伊勢崎線スカイツリーラインの開業は1899年。開業当初から社名が変わらないという鉄道会社としては珍しい東武鉄道は実に120年という長い歴史を辿っています。

鉄道ファンの皆様なら知っての通り、東北方面に至る鉄路・東北本線高崎線を大宮で分岐するかたちで開業しましたから、日光街道はメインルートの座を失うこととなります。とはいえ腐っても主要街道、ここに鉄道を通そうとする機運が高まるのは当然といえば当然な話かもしれません。120年以上前の1899年に東武鉄道は開業するわけですが、

この地域に初めて鉄道会社を通したのは東武鉄道が初めてではありません。

 

初めてこの地域に鉄道を通した鉄道会社は

千住馬車鉄道

という名前の鉄道会社でした。その名前から分かるように、蒸気機関車が客車を牽いて走る近代の鉄道ではなく、客車こそレールの上を辿るもののその動力は「馬」を使う鉄道でした。1893年開業で、東武鉄道より実に6年も早くこの地に鉄道を通しました。

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↑は春日部に残る千住馬車鉄道のモニュメント。この鉄道会社、残念ながら資料が極めて少ないのですが、唯一残っていた写真から察するに日光街道にレールを敷いて走らせた鉄道だったようです。区間は千住(現東京都足立区)~粕壁(現埼玉県春日部市)。

メインルートを失ったといえど、沿線に千住・草加・越ヶ谷・粕壁と主要な宿場町がある路に通した鉄道会社。顧客が確実に見込める路に鉄道を通したこの千住馬車鉄道は日光街道の交通の覇者に

 

なれませんでした。

 

まあ資料少ないんですからお察しですよね。開業して僅か5年、1898年。なんと東武鉄道の開業を待たずしてこの鉄道会社は廃業することになります。東武鉄道の開業後に消えたなら「東武鉄道に潰されたんだな」ってなりますけど、それより前に廃業なのでそもそもビジネスとしてうまくやっていけなかったんでしょう。もしくは建設時に借金したのが返済しきれず首が回らなくなったか。

その後、この鉄道は

草加馬車鉄道

という鉄道会社が引き継ぎ、区間も千住~草加 (~越ヶ谷)に改めて再スタートを切りますが、その1年後にはここまで散々名前を出した東武鉄道が開業し、1900年という節目をもって草加馬車鉄道は廃業。僅か7年間という短命でこの鉄路は役目を失うことになるのでした。

 

こんな歴史から察するに、東武鉄道と各馬車鉄道は別資本であったと推測されます。先に書いたように日光街道(と思わしき路)に鉄道を敷いたので東武鉄道の線路とは別の線路となり、廃線跡東武鉄道の線路とはまた別のところにあります。

 

少し話は逸れますが、草加市には草加小学校があります。かつて木造だった校舎の焼失を受けて大正期に埼玉県初の鉄筋コンクリート造りの校舎が造られました。昭和期に新校舎に役割を譲ることとなりますが、この校舎は解体することなく保存され、現在は「草加民族資料館」、草加の歴史を伝える博物館として機能しています。中には簡単な歴史解説コーナーのほか、昔使われていた農具など考古学的に重要な物が保管展示されています。草加駅から徒歩10分くらい?入館料無料ですが時間や定休日には注意です。

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ここに展示されている草加の歴史年表の一部に「千住馬車鉄道」「草加馬車鉄道」の名前があります。千住馬車鉄道に至っては2行で歴史が始まり、次の1行で歴史が終わっています。いくら歴史年表とはいえあまりにも一瞬の歴史。本当に情報が少なすぎるのです。

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埼玉県の馬車鉄道の解説パネルがあり、ここに千住馬車鉄道の名前もあります。

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そしてこれと同じパネルに併記されてるこの写真。千住馬車鉄道、改め草加馬車鉄道が存在したことを示す非常に貴重な写真なのです。

 

ということで前置きが非常に長くなりましたが、今回はこの馬車鉄道の廃線跡をちょっとだけ歩いてみたという話です。

千住からとなると距離が遠いのは勿論のこと、まずルートの特定から始めなければならなくて非常に大変なので、この民族資料館にある写真の場所から、草加駅に直結する駅前通りまでを歩いてみます。

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民族資料館の写真とほぼ同じアングル。小さな売店らしき建物は解体され工事現場になっちゃってますが、奥の地蔵堂をはじめそれ以外は同じであることはなんとなく分かっていただけると思います。

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少し見辛いですが、左の道の奥に見える高架が東武鉄道の現在の高架。ほぼ平行するかたちで日光街道、馬車鉄道が通っていたことになります。なお建設中の建物は草加市役所だと思います。たぶん。

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少し歩き、振り返ったところ。先ほどの地蔵堂がちょっと見えますね。f:id:Isesakiuser:20220604231544j:image

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順方向

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逆方向

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順方向

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逆方向

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道はまだ続きますが、駅前通りに出たのでこれにてショート廃線辿りは終了。馬車鉄道が日光街道に通されていたならば、この先の松原、綾瀬川沿いの松並木の通りに出て、旧4号日光街道こと現在の県道49号線に沿って北上していくはずです。

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振り返った様子。

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振り返ったうえでズームした様子。先ほどの地蔵堂が写ります。道幅は車2台がすれ違える程度の道幅で現在基準からすれば狭いですが、日光街道はおろか東海道みたいな街道でもこのくらいの道幅だったようです。線路は跡形もありませんが、ここが街道だったと言われるとなんとなく納得してしまいそうです。

時代が経ちすぎてるせいで線路の名残なんて微塵も残されていませんが、かつてからある道が無くなるなんてことはそうそうなくだいたいは残されますから、この道を鉄道が通っていたと考えてよいでしょう。

 

短命にして120年以上も前に廃止された鉄道ということで極めて情報が少ない鉄道で、建設経緯や経営状況に関する情報はほとんどありません。もしかしたら街の中央図書館にあるような街の歴史書に言及があるかもしれませんが、まああってもせいぜいその程度でしょうか……

トラックなんてなかった当時、開業時期からし東武鉄道の建設に一役買った可能性は十分ありますが、それ以外に何の役に立ったのかというのは完全に謎に包まれてしまっています。そんな時代の影に隠れてしまった、日光街道沿い初めての鉄道の紹介と廃線探訪の記録でした。

 

オマケ

廃線跡を歩いていたとき、ふといい感じの和菓子屋っぽいのが目につき、つい入ってしまいました。餅でいちごを包んだいちご餅を購入し頂きました。酸味のあるジューシーないちごと甘く柔らかい餅の組み合わせがおいしい一品でしたが、今シーズンは間も無く終了とのこと。羊羮やプリン、ケーキも売られていました。なんとなく、街道沿いの和菓子店という雰囲気があり個人的に好みでした。

一応撮影の許可は頂きましたが、あまりメディア露出したいタイプの店ではないようだったので店名は伏せさせていただきます。行けばきっとわかるので探してみてくださいませ。