せっつ気まぐれ鉄話

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その線形に歴史あり~伊勢崎線の都内は何故大きなカーブが多いのか

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東武鉄道伊勢崎線。浅草から北千住、東武動物公園、館林と経て伊勢崎へ至る東武鉄道の主要路線というのは鉄道ファンの大半はご存知の通り。このうち、浅草~北千住~東武動物公園スカイツリー開業に合わせて「スカイツリーライン」の愛称が付けられています。このスカイツリーライン区間はかつての主要街道であった日光街道、現国道4号線/県道49号線に沿っており、草加東武動物公園においては春日部付近にカーブがある以外はほぼまっすぐの線形をしています。

f:id:Isesakiuser:20220331110217j:image(google mapに加筆)

ただしこの埼玉県区間では綺麗な線形も都内に入ると急に変化し、西新井、小菅、北千住、堀切、鐘ケ淵、とうきょうスカイツリーとゆるやかながら大きなカーブが連続する路線になります。

こんな大きなカーブの多い路線、何故こうなったのか。これは当時の建設に携わった人がぐにゃぐにゃ路線を造るのが趣味な特殊性癖持ちだったから……というわけではありません。ということで、歴史を紐解いていきましょう。

当初建設の区間は北千住~久喜。建設計画段階ではおそらくこんな感じのルートを取る予定だったようです。

f:id:Isesakiuser:20220331155220j:image(ルートは推定)

当初予定は『南足立群綾瀬村(現足立区)から北上して同群花畑村(現足立区花畑)を通過し、一気に埼玉県草加町へ抜ける予定だった』そう。では何故まるで西新井に寄るようなルートが採られたのか?

これは、西新井大師(新義真言宗五智山遍照院総持寺)が参拝客の利便性を図るのと宣伝のため鉄道を誘致し、それとともに駅用地の提供を申し出たからだそうです。1898年(明治32年)1月7日に千住~草加を西新井に接近するように変更する出願を行い、同年3月8日に認可されました。かくして西新井をわざわざ寄るような線形になったようです。

ちなみに西新井大師は『関東7か寺のひとつで、触れ寺であった。また川崎大師と並んで、厄除け開運の霊場とされ、多くの参拝客を集めてきた。』と書かれており、現在でも三が日は特に多くの参拝客が集まる寺となっています。

そして東武鉄道の北千住~久喜が完成、開業。その後、東武鉄道はさらなる都内のターミナルを求めて延伸やターミナル変更を繰り返していくこととなります。ターミナル模索のくだりは解説動画が星の数ほどあるのでここでは解説しないことにします。

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そうして開業したルートがこちら。赤い線が当時の線路で、青い線が今の伊勢崎線。浅草付近はターミナルが定まらない時期だったため置いておくとして、曳舟以北で2ヵ所も現線路と異なる部分があります。

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拡大するとこんな感じ。かつての伊勢崎線が青線、常磐線が緑。全く違うところを走っています。北千住以北では荒川の部分で常磐線を跨ぎ、堀切付近ではもはや水のなかを走ってます。東武鉄道は荒川を突っ切るアクロバティック鉄道だったのか?さにあらず。この答えのヒントはこの荒川そのものにあります。というのも、この現荒川は「造られた川」なのです。

かつては隅田川が荒川でした。東武鉄道は北千住を経由しつつこれに沿って造られたがゆえに北千住付近のS字カーブが造られました。しかしこの荒川(現隅田川)は東京の大切な水運であったと同時に、「荒れる川」の名の通りに豪雨で度々氾濫を起こす問題児でもありました。

1909年(明治43年)8月1日から連日降り続いた雨により未曾有の大氾濫が発生。この凄まじさは「関東一円を海にするかのごとく」と例えられるほどで、泥海となった地域の往来に舟を使わざるを得ない状況に。水が引いて地面が見えるようになったのはなんと丸4ヵ月も経った12月の頃で、この豪雨災害を機に赤羽岩渕で分岐する荒川放水路(現荒川)が建設されることが決まります。この建設予定地には現常磐線伊勢崎線が引っ掛かることとなり、引っ掛かった北千住~西新井と鐘ケ淵~堀切はこれに合わせて新線切り替えをすることとなります。ちなみにこのタイミングでちゃっかり電化工事(西新井以南)もやっていたとのことで。北千住~西新井の小駅群、小菅・五反野・梅島はこの新線切り替えに合わせて開業(1924年/大正13年)。荒川放水路は同年に上流から下流までの通水が行われ、その後1930年(昭和5年)まで改良工事がされて現在のかたちが完成しています。また荒川放水路の開削にともない、かつての荒川は隅田川へと名前を変えることとなったようです。荒川放水路は1965年(昭和40年)河川法な改正で一級水系に指定され正式に荒川を名乗ることとなりましたが、荒川放水路の名前は荒川を渡る伊勢崎線の橋梁に今もなお残されています。

ちなみに旧線は一部が道路に転用されており、その線形を伺い知ることができます。

 

ということで解説おわり。浅草のターミナルが云々とか大師線が云々とかいう話はよく語られる割にこういう話は迷列車動画でも鉄道系YouTuberもまったく触れないので、ここで書いてみました。マニアックな話ではありますが、知ってるとまた違った見方ができるかもしれませんね。

単なる線形にも歴史あり。これを見てる方の地元の路線にも、実は深い歴史の隠された線形があるかもしれません。

 

墨田川→隅田川へ修正(表記ミス)

国土交通省の資料により隅田川命名のくだりが判明したため経緯を修正

 

追記: この記事公開後、フォロワー様より「なぜ荒川(現隅田川)を渡らなかったのだろう」と疑問を頂きました。資料は未確認ですが、見落としの可能性もあるので「要調査」とだけ言ってぼかしておきます。

「北千住を出てすぐに現隅田川を渡り、隅田川の沿いを通って浅草へ向かうルートを採らなかった理由について」と解釈して進めますが、憶測では

東武鉄道の建設が貨物輸送目的だった→隅田川を渡ると貨物ヤードを設置するための広大な用地や機関車の転車台を置くための、用地を買収することが困難だった、もしくは何かしらの地理的要因で設置困難だった

越中島方面の延伸を目指していた→無理に隅田川を渡る必要がなかった

・橋梁の設置は莫大な資金がかかり(技術が今ほど発達してない昔ならなおさら)、橋梁を掛けるだけのコストに見合わなかった

などが考えられます。なおこの時代は鉄道と水運の時代なので、千住や業平橋の貨物ターミナルまで運ばれた貨物は当初、水運で運ばれていたと推測されます。あくまでこれは推測であり、本格的に調べるとなると当時の古地図の取り寄せが必要になりそうです。

 

参考文献

東武鉄道百年史』1998年 東武鉄道社史編纂室編集 東武鉄道株式会社発行 p99-100, 306-308

東武伊勢崎線日光線 古地図さんぽ』2018年 坂上正一著 フォト・パブリッシング発行 p34-45

国土交通省資料ほか